BLUESNIK
Chronology
A.D. |
ことがら |
1931/5/17 |
NewYorkで生まれる。父親はタイニー・ブラッドショウバンドのギタリスト。HarlemのSugar Hillで育つ。 1932年説は誤り。アルバム「Lights Out」の作成時、ライナーノーツを執筆するアイラ・ギトラーに生年月日を質問されたとき、ドナルド・バードに年上だとからかわれるのが嫌で、わざと一つ年下に証言したのが広まったという。 |
1938 |
父親が事故死 |
1943 |
母親がジミー・ブリッグスと再婚 |
1945 |
教会の牧師にSoprano Saxophoneを譲ってもらう。 |
1946 |
誕生日プレゼントに母親からAlto Saxophoneをもらう。
「最初ソプラノを吹いていたんだけど、当時のアイドル、レスター・ヤングが持っていたような、ちゃんと曲がった、金色のホーンが欲しかった。そこで母が、15歳の誕生日プレゼントに新しい楽器を買ってきてくれた。ちゃんと曲がった、金色のホーンではあったが、それはテナーではなく、アルトだった。」出典:レコード・コレクターズ,Nov.,1992 |
1946/12/16 |
Rene McLean誕生。当時マクリーンは15歳のはず???。 |
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ニューヨーク音楽学校で音楽を学ぶ。同時にWalter Foots Thomas、Joe Napoleonにも師事。 |
1947 |
Bud Powellと知り合う。 |
1948 |
初めてバンドを組む。メンバーはSonny Rollins(ts),Lowel Louis(tp),Kenny Drew(p),Walter Bishop Jr.(p),Arthur Philips(b),Art Taylor(ds)ら。 |
1948 |
このころ初めてThelonious Monkと共演。 |
1948? |
Charlie Singletonのバンドで初録音。 「チャーリー・シングルトンのR&Bバンドで<Camel
Walking><Hard Times Are
Coming>の2曲を録音した。吹いたのはバリトン・サックスで、ソロはとらなかった。」
出典:レコード・コレクターズ,Nov.,1992 |
1949 |
Miles Davisと知り合う。 |
1951 |
Miles Davisのバンドで「バードランド」に出演。 オレは自分のバンドで「バードランド」に出た。ソニー・ロリンズ、ケニー・ドリュー、アート・ブレイキー、パーシー・ヒース、ジャッキー・マクリーンというメンバーだった。バド・パウエルがジャッキーを知っていて、高く買っていたから、オレに使えと言ってきたんだ。(中略)
初日、奴(マクリーン)は7小節か8小節吹き始めた途端、ステージを駆け降りて裏口から飛び出していった。リズム・セクションはそのままやっているし、客は何が起こったのかわからずに、口をポカンと開けていた。オレもステージを降りて、奴の様子を見にいったが、きっとヘロインで気分が悪くなったんだろうと思っていた。「バードランド」の主人のオスカー・グッドスタインも追っかけてきた。
裏に出てみると、ジャッキーはゴミ箱に頭を突っ込んで、ゲーゲーやっていた。大丈夫かと聞くとうなづいたから、「楽器を綺麗に拭いて戻ってこい」と言ってやった。リズム・セクションが相変わらず同じことをやっているのが聞こえていた。オスカーは呆れ顔で立っていたが、「さあ、これで顔を拭いてこい」とジャッキーにタオルを投げると、振り向いて、先にクラブに入っていった。
だが、戻ってきたジャッキーは凄い演奏をした。あの時の奴は、ちょっとしたものだった。奴は緊張し過ぎて、ハイになっていたんだ。
出典:マイルス/クインシー・トループ「マイルス・デイヴィス自叙伝」中山康樹訳 |
1951/10/5 |
「Dig/Miles Davis」に参加。 「ジャッキーは初レコーディングで、いい加減緊張していたが、バードを見て、ひどく取り乱してしまった。バードが、奴のアイドルだったからだ。ジャッキーは何度もバードの所に行っては何をしているのかと聞いていたが、バードはその度に、ただふらりと聴きに寄っただけだと繰り返し答えていた。(中略)しばらくするとジャッキーも落ち着いて、すばらしい演奏をした。」 出典:マイルス/クインシー・トループ「マイルス・デイヴィス自叙伝」中山康樹訳
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1952/5/9 |
「Miles Davis vol1/Miles Davis」「Miles Davis vol2/Miles Davis」に参加。 <イェスタディズ>をやっている時、ジャッキーは、また同じヘマをしでかしやがった。オレはカッとなって、役立たずを怒鳴りつけて、冷酷に罵った。泣き出すんじゃないかと思ったほどにだ。で、まるでうまく吹けなかったから、この曲では休ませた。それが<イェスタデイズ>に奴が入っていない理由だ。
出典:マイルス/クインシー・トループ「マイルス・デイヴィス自叙伝」中山康樹訳 |
1953 |
ノースカロライナで学校に通っていた。
「1953年、ノースカロライナで学校に行ったとき、リズム&ブルースのバンドで演奏していた。一年ほどいたが、とても有意義だった、大いに影響を受けたね。 グリーンズボロでは、ダニー・リッチモンド、わたし、T.J.アンダーソンの三人でグループを作った。このときダニーはサックスを吹いていた。アンダーソンは、ジャズとクラシックの作曲家で、タフツ大学で教鞭をとっていた。彼が当時そこに住んでいたこともあって、地元のクラブやリズム&ブルースのバンドで演奏した。 グリーンズボロには、《ABAクラブ》など、いろんなクラブがあった。そこで歌手の伴奏をしたりした。ひとつのキーで朝まで延々と演奏していた。もっとも誰がリーダーになるかで大きく違ってきたけれど。 ひとりサックス奏者で、どんな曲でもEフラットで演奏するヤツがいた。彼がバンドリーダーになったときは、夜中じゅうEフラットのブルースを演奏することになるんだ。そいつとはよく酒を飲んだしケンカもしたが、ずいぶんいっしょに演奏したよ」
出典:ハード・バップ/デヴィッド・H・ローゼンタール/後藤誠訳
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1955/3 |
Charlie Parker死亡。マクリーンは出先でその死を聴き、泣きながらバスで自宅に帰ったという。 |
1955/8 |
「Miles Davis & Milt Jackson」に参加。 (中略)ビバップ的なサウンドにしたかったから、ジャッキー・マクリーンのアルト、ミルト・ジャクソンのバイブ、パーシー・ヒースのベース、アート・テイラーのドラムス、レイ・ブライアントのピアノという編成にした。ジャッキーがハイになりすぎて、「吹けないよ」と騒いだのを憶えている。オレは頭にきて、その日以来、二度とジャッキーを使わなくなった。
この日は、ジャッキーの<ドクター・ジャックル>と<マイナー・マーチ>を最初にレコーディングした。次にサド・ジョーンズの<ビッティ・ディッティ>をやったんだが、アートが何度もつまずいた。そのうち良くなることを信じていたし、アートは繊細ですぐ気に病んでしまうタイプだから、なるべく強く当たらないようにした。すると、やたらハイになっていたジャッキーが、突然オレに文句をつけはじめた。「マイルス、おかしいじゃないか。オレがダメな時は、アートにするように優しくしなかったじゃないか。すぐに間違いを並べ立てたくせに。なんでアートには、オレにしたみたいに強く当たらないんだ。」
ジャッキーは相変わらずどっぷりヤクに浸っていた。それでも仲間には変わりがない奴を見つめて、「どうしたんだ、お前。小便でもしたいのか。」と言うと、奴は怒り狂って、楽器をしまうとスタジオから出ていった。だから奴は、あのレコードでは二曲にしか入ってないんだ。
出典:マイルス/クインシー・トループ「マイルス・デイヴィス自叙伝」中山康樹訳 |
1955/9/9 |
「Live! At The Cafe Bohemia/George Wallington」に参加 |
1955/10/21 |
初リーダーアルバム「The Jackie McLean Quintet」録音
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このころPrestigeと契約。マクリーンは、プレスティッジに良い感情を全く抱いていません。80年代のインタビューでは「まるでConsentrationCamp(強制収容所)のようだった。」と語っているのことです。 「彼らは少しばかりの前金をくれ、レコード発売後に入る印税について話してくれた。ところが、結局のところ、わたしが全部を支払うことになってしまう。録音技師、レコード裏面のノート(ライナーノート)、カラー写真など、すべてわたしの金で支払われたのだ。わたしは今でも、あの会社に5万ドルという話にならない金額の負担があるという証書を持っている。」
出典:ジャズ批評93ジャッキー・マクリーン大全集 |
1959/1/18 |
「Jackie's Bag」前半を録音 |
1959/2/4 |
「Blues And Roots/Charles Mingus」に参加 |
1959/5/2 |
「New Soil」録音。録音には息子(Rene McLean)のサックスを使用したという。 |
1959/7/15 |
この頃Jack Gelberの演劇「The Connection」に初出演。New York六番街Living Theatreで初演。
「リヴィング・シアターにいた連中は偉大で、よりよい方法を求めてずっと先のことを考えている思慮深い連中だと思っていた。彼らを愛さなければならなかった。リヴング・シアターは大きな共同体のようなものだったからだ。 生活も食事も一緒で、お互いの個人的な問題にも取り組んでいた。わたしが彼らと生活をともにしなかったのは、妻と子供がいたからだ。それでもある時は一緒だった。ニューヨークを離れてヨーロッパに行ったときなどは、彼らと寝食をともにした。」
出典:ハード・バップ/デヴィッド・H・ローゼンタール/後藤誠訳
演劇「Connection」に関する話はこちら。
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1959/8/2 |
「Davis Cup/Walter Davis Jr.」に参加 |
1959/10/4 |
「Fuego/Donald Byrd」に参加 |
1959/10/20 |
「Swing,Swang,Swingin'」録音。「ごく一般的なリスナーにも、彼のリズムへのアプローチはバードのそれよりはるかにビート力学に深く結びついていることが分かるだろう。レコードでお馴染みのパーカーのキャリア全体を貫通するリズムの多様性は、マクリーンの作品には遠いこだまを残しているに過ぎない。それでもなお、マクリーンのラインは変則的で、フレーズは強調がために基本的な流れに逆行する彼独特の調子を見せることが多いのだ。」
「この伸びゆくオリジナリティはその生育の速さよりもむしろ漸進性に特徴がある −例えば、1954年以降のソニー・ロリンズの急速な展開とは対照的である− 私がそう思うのは、彼はすでに数枚のいいレコードを発表しているにも関わらず、彼の持つ可能性は十分に花開いていないように感じるからなのだ。マクリーンは着目に値する男である、と私は断言する。」
出典:"Swing,Swang,Swingin'"ライナーノーツから。Jazz Monthly1959年10月号に掲載されたMichael Jamesの評論。訳:赤塚四朗 |
1959/11 |
New YorkのFive Spotに出演したOrnette Colemanの生演奏に接する。 |
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1961/1/8 |
「Bluesnik」録音。このアルバムのジャケットで、マクリーンはニュー・ヨークのグリニッジ・ヴィレッジの一角と思われる場所でポーズをとっています。実際、マクリーン自身もヴィレッジでの芸術生活に浸っていたようです。 「ハーヴェイ(マクリーンが最初に知り合った画家)はバルトーク、多くの画家、セザンヌのスタイルなどの手ほどきをしてくれた。ヒエロニムス・ボス(オランダの画家)も紹介してくれ、別の世界を教えてくれた。 ボスはわたしに大きな影響を与えた画家だった。当時、わたしの生活は荒れきっていたから、彼の絵を理解できたのだと思う。病気のとき(麻薬が切れたとき)に彼の絵を見ると、恐怖を感じたものだった。 1961年、画家のボブ・トンプソンに出会って、とても親しくなった。彼と一緒にいて、音楽や絵について語り合い、多くのことを学んだりした。リロイ・ジョーンズも僕らの仲間だった。みんな当時のヴィレッジをたむろしていたんだ。」
出典:ハード・バップ/デヴィッド・H・ローゼンタール/後藤誠訳 |
1961/1/17 |
「Redd's Blues/Freddie Redd」に参加 |
1961前半〜夏 |
「The Connection」舞台のために渡英。
「その日は、大変だった。われわれが出発しようとした日、マンハッタンをおそった大吹雪のせいで、すべての交通機関が麻痺してしまった。それまで体験したことのない大吹雪だった。その前日は、雪など降っていなかったのに。 その日、目を覚ましてから、ヨーロッパに向かう準備をしていると電話が鳴った。連中(リヴィング・シアターの仲間)のひとりからだった。 『ジャッキーかい。ハッカーだ。』 『うん。足がなくて、そこまで迎えに行けないんだ。』 『大丈夫だ。救急車で君の家に向かっている。全員のピックアップをするために救急車をつかまえたんだ』 思わず神に祈った。わたしは麻薬が切れて、苦しかった。体調も悪く、妻が廊下を歩くのを支えてくれた。カバンとサックス、子供を連れてずっと立っていた。 救急車がやってきて、わたしは階段を降り、カバンを車に入れた。彼らは両手を差し出して、中に入れてくれた。こうして次の仲間をピックアップして、船が泊まっている港まで向かった。 船はクイーン・エリザベス号だった。こうしてツアー参加者の全員が救急車でやってきた。救急車でやってきた病人のグループだ。わたしが病人といったのは、身体の状態をわかってもらうため、生命の危険にさらされている意味だった」
出典:ハード・バップ/デヴィッド・H・ローゼンタール/後藤誠訳
演劇「Connection」に関する話はこちら。 公演の後単身パリに渡り、クラブ「シェ・キ・ペシュ」に2ヶ月出演。 |
1961/10/26 |
「A Fickle Sonance」録音 |
1961/11/13 |
「Inta Somethin'/Kenny Dorham And Jackie McLean」録音 |
1961/11〜12 |
Kenny Dorham,Walter Bishop Jr.,Art TaylorらとSan Francisco,Los Angelesなど西海岸でツアー。 |
1961/12後半 |
Jim HarrisonとDick PrendergastによりJudson Hall(所在地不明)で「An Evening With Jackie McLean」が開催される。 |
1964/4/5 |
「It's Time」録音 |
1964/8/11 |
「Tom Cat/Lee Morgan」に参加 |
1964/9/16 |
「Action」録音 |
1964/11 |
「The Jam Session」のメンバーとして初来日。東京公演は11月7日に有楽町ビデオ・ホールで開催。来日メンバーはKenny Dorham、Freddie Hubbard、Benny Golson、Cedar Walton、Reggie Workman、Roy Haynes。「Dig」「Birdlike」「Au Prevave」「Easy Living」「Old Folks」「Lotus Blossum」「A Night In Tunisia」などを演奏した。 「すばらしい旅だった。わたしの生涯で初めて、コーカサス民族の支配しない国とはどんなものかについて、理解できた。(略)私たちが飛行場に降りるときはいつも、何百人のファンが待っていた。日本に着くまでは、自分が何枚レコードを作ったかを知らないでいた。だが、日本には、私の出演しているレコードを全部持っている人や、他のミュージシャンのレコードを持っている人がおり、私たちにレコードのアルバムや、レインコートやシャツにサインをしてくれと言った。彼らは本物のジャズ・ファンだ。」
出典:ジャズ批評93ジャッキー・マクリーン大全集 |
1966/4/18 |
「High Frequency」を録音
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1966/9/29 |
「Charisma/Lee Morgan」に参加 |
1966/12/18 |
Merryland州BaltimoreにあるLeft Bank Jazz Societyの主催によるライブ「Dr.Jackle」「Tune Up」を録音 |
1966/12 |
SNNC(Student Nonviolent Cooodinating Committee/学生非暴力調整委員会)で演奏 |
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このころ、Archie Sheppに請われてバッファロー大学で一年間の講義を行う。 |
5年間演奏活動を休む。「スラッグス」で時折演奏する以外は、NewYorkで麻薬撲滅のボランティアを行う。1968年半ばからはコネチカット州Hartford大学で教鞭に立つ。70年頃から若者たちのために「Open House At The Artists Collective」という学校を始める。
「わたしにはしばらく演奏活動から遠ざかることで休息が必要だった。というのもブルーノート時代はアルト奏者として限界に挑んだ終わりのない戦いをしていたからだ。常に新しいものを模索し、それを追求していたのがブルーノートの時代だった。そういうテンションの高い音楽生活に疲れていたし、契約も切れることになっていたから、ここいらでしばらくストップしてもいいかな、という気持ちになっていた。1967年の年末だったと思うが、「Demon's Dance」をレコーディングして、あとは年が明けて残っていたギグを終えたら予定がなかった。」
「それで何をしたかというと、まず一つは以前から考えていたことなんだが、麻薬撲滅のボランティア活動を妻と始めたんだ。自分自身昔は麻薬に苦しんだし、そのときの経験が役立つと考えていたから、この機会に取り組むことにした。マンハッタンのダウンタウンにあったセンターで週に2〜3日通って、そこでカウンセリングの手伝いを始めたんだね。その他の日は、練習したり曲を書いたり、たまには演奏に出掛けたりと、自分で余り忙しくないようにしていた。」 「そんなある日のことなんだが、多分1968年の半ばだったと思う、知り合いからコネチカット州の大学で教えないかという話がきた。ハートフォード大学に音楽学部を作るんで、そこでディレクターのようなことをやって欲しいと言うんだ。自分自身以前から後進の指導に興味があったから、この話にはそそられた。ただそうなるとパフォーマーとしてキャリアを続けていくのもある程度は控えなければならない。また自分にそんな責任ある仕事が勤まるかも不安だった。しかし以前のように次から次へと仕事をこなしていくような生活はもうしたくなかったし、この辺で少し落ち着くこともひつようだと思った。何しろ16でデビューして以来20年間がむしゃらに突っ走ってきたからね。」
「幸い学校が休みの間は演奏活動も出来るし、ツアーにも出れるんで、ペースとしては丁度いいことが分かった。」
出典:Live at Montmartreライナーノーツ:小川隆夫氏 訳
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1976/4? |
Kenny Drew Trioと共に来日。 |
1976/4/12 |
「Like Old Times/Mal Waldron And Jackie McLean」録音 |
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1977/4/27 |
Art Farmer Bandのゲストとして来日。「Live In Tokyo/Art Farmer」に参加 |
1978/4/6,7 |
「New Wine In Old Bottles/Jackie McLean With
The Great Jazz Trio」録音 |
1978/11〜1979/1 |
「Monuments」録音。シングル・カットされた「Dr.Jackle & Mr.Funk」はイギリスのポップ・チャートで53位を記録。
「フュージョンをやることに問題はなかった。私にとってはフュージョンもロックも身近な音楽だ。あのリズムが好きなんだ。」 出典:ジャズ批評93ジャッキー・マクリーン大全集 |
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1982 |
Woody Shaw、Bobby Hutchersonらと来日。 |
1985/2/22 |
New Yorkにて開催されたOne Nights Wirh Blue Noteに参加。「One Nights Wirh Blue Note vol.2/V.A.」として記録が残る。メンバーはWoody Shaw(tp),Jackie McLean(as),McCoy Tyner(p),Cecil McBee(b),Jack DeJohnette(ds)。「Passion Dance」を演奏。 |
1985/4/6,7 |
「It's About Time/McCoy Tyner And Jackie McLean」録音 |
1986/8/30,31 |
Mt.Fuji Jazz Festivalで来日。メンバーはWoody Shaw、Cedar Walton、Buster Williams、Billy Higgins。「Cool Struttin'」「Sonny's Crib」を演奏。 |
1986/9/1 |
「Left Alone'86/Mal Waldron And Jackie McLean」録音 |
1993/6 |
JVC Jazz Festival in New YorkでDonald Byrdと共演。 |
1994/4/6 |
「Carnegie Hall Salutes The Jazz Masters-Verve 50th Anniversary」に参加 |
1995 |
New Yorkビーコン・シアターでSonny Rollinsと共演。 |
1996/1/28 |
「Hat Trick/Jackie McLean And Junko Onishi」録音 |
1996/8 |
Mt.Fuji Jazz Festivalで来日。Freddie Hubbard、大西順子らと共演。 |
1997/6 |
来日。東京と大阪のBlueNoteで演奏。 |
1997/7/13,15 |
「Fire And Love」録音 |
1997/10/7,8 |
「Nathalie / Llew Mathews」に参加 |
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1999/6/12,13 |
「Nature Boy」録音 |
1999/7〜8 |
来日。各地のライブハウス・ジャズフェスティバルで演奏。そのうち、めいほうジャズフェスティバルのレポートはこちら 1999年のマクリーンの来日メンバーは、
ジャッキー・マクリーン(as)
ダレン・バレット(tp)
サイラス・チェスナット(p)
エシェット・エシェット(b)
ビリー・ヒギンズ(ds)
でした。「A Fickle Sonance」以来、マクリーンと共演してきたヒギンズとの来日という点が注目でしたが、ビリー・ヒギンズの来日は中止となり、代役にエリック・マクファーソンが起用されました。
日時 |
ところ |
会場 |
7月16日(金) |
福井 |
ハーモニーホール |
7月19日(月) |
小倉 |
ビッグバンド |
7月21日(水) |
広島 |
ホテルグランヴィア広島 |
7月22日(木) |
広島 |
ホテルグランヴィア広島 |
7月24日(土) |
宮崎 |
フェニックスジャズフェスティバル |
7月26日(月) |
大分 |
ブリックブロック |
7月28日(水) |
熊本 |
熊本ホテルキャッスル |
7月29日(木) |
岡山 |
ホテルグランヴィア岡山 |
7月31日(土) |
岐阜 |
明宝ジャズフェスティバル |
8月 1日(日) |
釧路 |
釧路キャッスルホテル |
8月 3日(火) |
札幌 |
札幌ルネサンスホテル |
8月 4日(水) |
東京 |
スィートベイジル |
8月 8日(日) |
舞鶴 |
赤煉瓦サマー・ジャズ・イン舞鶴'99 |
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1999/8/29 |
NYのトンプキンス・スクエア公園で開催された「第7回Charlie Parker Jazz Festival」に出演。 |
2000/7/2〜6 |
東京・青山のBlueNote Tokyo「渡辺貞夫Meets Jackie McLean」に出演。渡辺貞夫とマクリーンを除くメンバーはAlan Jay Palmer(p),Phil Bowler(b),Eric McPherson(ds)というFire And Loveのリズム陣。Confirmation、Parker's Mood等ビバップナンバーを演奏した。 |
2006/3/31 |
コネチカット州ハートフォードの自宅で死去。享年73歳。 |
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